朝 倉 歴 史 跡 探 訪

*日時: 4月18日(日)9時00分受付開始・9時10出発,13時解散
*集合場所:三連水車の里あさくら 駐車場
*参加費:300円 (弁当、お茶 各自持参か調達)
*参加人数:16名  
                          
*内容:「隠家の森」〜「恵蘇八幡宮」〜「斉明天皇御陵跡」〜
  「あさくら」〜「山田堰」〜「中村哲先生の記念碑」〜「百人一首の碑」


 
三連水車の里あさくら

  

参加者A班記念撮影

 

参加者B班記念撮影
 
  
 
ガイドは朝倉環境協会の徳永氏とお二人
 
 

「隠家の森」

橘広庭宮を守るために設置された「朝倉の関」で名乗って通れない人が夜になるまで
隠れていた事から、この呼び名が付ついています。樹齢1500年以上の樟の巨木が
幹の痛みを我慢しつつ当時の様子を今に伝えています。
  
 

「恵蘇八幡宮」

中大兄皇子(後の天智天皇)は唐.新羅との戦いに勝利するため、
恵蘇八幡宮を建立。その後斉明.天智両天皇も合祀されています。

 
「恵蘇八幡宮」の正面

天智天皇は唐.新羅との戦いに勝利するため、安全性のため
都を博多に作るよりも河を遡って朝倉に決めた事から歴史が始まりました。


「朝倉木の丸殿跡」

明治31年(1898年)建立、中大兄皇子は御陵山において斉明天皇のもがりを
終えた後、丸太小屋を建てここで喪に服された。この丸太小屋を「木の丸殿」
といい恵蘇八幡宮境内に立っていたと言われています。


斉明天皇御陵山の登り口石段
 
 
「斉明天皇御陵山」
斉明天皇の亡骸をもがりした所

 
朝倉の関跡.関守の墓

朝倉や木の丸殿に我居れば名乗りをしつつ行くは誰が子ぞ

 

朝倉の歴史について詳しく説明をされました。

 
 
「月見石」

水神社の境内に石に囲まれた中に平らな石が月見の石です。
天智天皇が喪に服くされている間、この石に腰掛け雄大な筑後川に
映る月をご覧になり、心の痛みを癒された、と伝えられています。


漏刻(水時計)と時の記念日

恵蘇八幡宮では天智天皇の功績をたたえて6月10日に
時の記念日祭が行われます。全国的にも数少ない祭りです。

 
   

古賀百工翁

暴れる筑後川の灌漑に尽力された人

 

山田堰に建てられた鳥居

 
山田堰の全景

1662年〜1663年、かつてない大干ばつに依る飢餓がもととなり筑後川より取水する水路を
掘り進め、1663年に堀川用水路が完成、この地の庄屋、古賀百工は農民とともに新たな
用水路を1764年に完成させ、より広い水田の耕作地が出来ました。

 
 

堰の成り立ちについて説明

 
 
「山田堰」

1790年(寛政2年)には巨石を用いた今の「総石張堰」も完成させました。
この堰は全国にも類のない「傾斜堰床石張堰」といいます。
 

山田堰 トンネルの取水口堀川用水路に流れています。

 

トンネルを通り堀川用水に流れ込む

今の三連水車は水面より高い土地を水田にする
ためのもので、水車により耕作面積がぐんと広がりました。


一隅を照らす

アフガニスタンで水路づくりをしていた中村哲医師が参考にした堰としても有名です。

 

百人一首で 最初に読まれた歌の碑 天智天皇

秋の田のかりほの庵の苫をあらみ
わが衣手は露にぬれつつ

 

沢山の先人達の貴重な知恵と努力の歴史を学ばせていただき、ただただ驚くばかりでした。